教育コラム004話:「責任」と若者の可能性

青少年・若者と関わる機会が多く、いろんな人と話をしていて思うことを書きたいと思います。

■「責任」という言葉に対する重み

仕事柄、子供たちや大学生と関わることが多く、そこでいろんな話をしますが、話をしていて思うことは、「責任」という言葉の捉え方が全然ちがうなーということです。

話をしていると、
とにかく、「責任」という言葉が嫌いなように感じます。

「嫌い」という表現が正しいのかはわかりませんが、「避けたい」と思う言葉のようです。

たしかに、

・自分以外も含めたたくさんの人が関わることにおいて、
・行く末を左右するような決断をしてください!

と言われる場面を想像すると、たしかに前向きな気持ちになれる人はあんまり多くなさそうですね。

👆こちらを避けたいというお話はなんとなくわかるような気もするなーと。

ただ、個人単位の行動であっても「責任」って発生しますし、大学生とかと話をしていると個人単位の行動においても「責任」を避けたいと思うことが多いようです。

■見えない言葉が若者を制限している

「責任」という言葉。

当たり前のことですが、言葉なので目には見えません。

でも、いろんな場面や物事、状況にくっついてきます。
さまざまな場面において、自身の発言や行動に知らず知らずのうちにくっついてくる。

あまりにも過剰に捉えすぎると、「行動」が制限されるようになる。

たくさんの人がその場に居合わせれば、一番最初に動いた人についていく。
あるいは、反対意見に集まる。

そんなことも起こってきます。

自分が常に多数派にいて、非難を受けないためにはどうすればいいか。

「自分から行動しない」が鉄則になってくる。

「周りがどう動くかをみて、自分がどっちに動くかを決める。」がその次でしょうか。

「責任をとる」

言葉の捉え方一つで、言葉がもつ本来の意味以上の何かに怯えてしまった結果、確実に青少年・若者たちから大切なものを奪っている気がする。

失敗しても、うまくいかないことがあっても、
努力しようとしたことや逃げずに挑戦した自分や仲間に、「いいね!」と言える社会になれば、どれだけ若者・青少年の可能性は拡がるだろうか。

東京オリンピックのスケボー競技。
多くの人が魅了されたのは、華麗な技の数々はもちろん、
そこにいる若者たちがつくりだした雰囲気だ。

個人の成功をみんなで喜び、
個人の失敗をみんなで受け止め、みんながそのチャレンジを称える。

そんなことがあたり前の日常になっていけば、もっといろんな可能性が拡がっていくのだろうと思う。

(くんちゃん)



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